http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070227-00000012-yom-soci

判決全文はこちら
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20070227173039.pdf


裁判は裁判官の合議制(今回のように最高裁小法廷であれば5人、過去の判断を変更する等重要な憲法判断になれば15人の大法廷で)で行われ多数決で審理が行われます。
その中で、今回は4対1で合憲(教諭の請求棄却)という判断になったわけですが…。

多数意見は、思想良心の自由は一定の歴史観・世界観を保証するものであるが、君が代のピアノ伴奏をさせたとしても、上告人のそれ自体を否定するものとはいえない。
また、憲法15条2項の全体の奉仕者論や、公務員の内在的制約論を掲げつつ、『本件職務命令はその目的及び内容において不合理であるということはできない。』
という法律を少しかじったならば誰もが知っている「合理性の基準」お決まりのフレーズで閉めておりますw

この多数意見自体は面白くないので、今回ここでは、この「1」である、藤田宙靖裁判官の反対意見に注目してみることにします。
(いっつも、ニュース記事のアドレスを添付してますけど、さすがに判決文の反対意見はなかなかお目にかかれないと思いますので、最高裁判所のHPより判決文pdfを)


「私には、まず、本件における真の問題は、校長の職務命令によってピアノの伴奏を命じることが、上告人に『君が代』に対する否定的評価それ自体を禁じたり、あるいは一定の歴史観ないし世界観の有無について告白を強要することになるかどうかというところにあるのではなく、むしろ、入学式においてピアノ伴奏をすることは、自らの信条に照らし上告人にとって極めて苦痛なことであり、それにもかかわらずこれを強制することが許されるかどうかという点にこそあるように思われる。」


としているわけです。
本件訴訟は、ピアノ伴奏不作為に関する戒告処分の合憲性訴訟ですけど、一連の君が代訴訟の本質はまさにここにあるように思われます。

藤田裁判官は続けて、

そうであるとすると、本件において問題とされるべき上告人の「思想及び良心」としては、このように「『君が代』が果たしてきた役割に対する否定的評価という歴史観ないし世界観それ自体」もさることながら、それに加えて更に「『君が代』の斉唱をめぐり、学校の入学式のような公的儀式の場で、公的機関が、参加者にその意思に反してでも一律に行動すべく強制することに対する否定的評価」といった側面が含まれている可能性があるのであり、また後者の側面こそが、本件では重要なのではないかと考える。
そして、これが肯定されるとすれば、このような信念ないし信条がそれ自体として憲法による保護を受けるものとはいえないのか。

おっしゃる通りです。
語弊を恐れずに簡略化するなれば、
上告人は、「君が代」強制を拒否しているのではなく、公的な場で「伴奏する(斉唱する)」こと拒否しているという側面が含まれるのではないか。
とすれば、多数意見のような思想感によったとしても、なお憲法上保護する余地があるのではないか。という感じですかね。

強制してまで本件上告人に伴奏させる必要があるのか?
(事実、事前録音されたテープで実際は流されたようですし・・・)
学校教育の究極的目的は「子供の教育を受ける利益の達成」であり、音楽教師が入学式に伴奏しなければならないわけではないのでは。
とすれば、代替措置もありえたのに、戒告処分までして強制させるのは校長の裁量権(指揮権)濫用ではないのか???


藤田裁判官はそこら辺を審再検討すべきとして差戻し意見でありまして、直接裁量権濫用とまでは、おっしゃってませんけど、主旨はそういうことだと思います。

わたくしは、この反対意見の方が、一連の訴訟を理解するうえでも、理にかなっていると思いますけど。
どうでしょうか。

  • 追記

いやー、びっくりした。
これを書き終わったあとにはてなユーザーを少しまわったんですが・・・
思想的な問題でもあるので、あれなんですけど、きれいに意見が分かれてますね。

①「戒告」処分が理解できずに、事実関係を理解していない人。
②教育者側に立った判決否定論。(裁量論に関する見解など興味深いものもあり)
無党派な、なに訴訟経済無駄なことしてんだよ、的な意見。(大多数w)
④「至極当然」という判決肯定論。(これも思ったより多数)
⑤それを超えて、反対意見を述べた藤田裁判官叩き(びっくり、結構いた)

tbつけて議論するつもりはないですけど、藤田裁判官を叩くならば、反対意見全文を読んでから検討していただきたい。

⑤の方が叩いてる藤田裁判官の意見とやらが、判決原文じゃなく、全てasahi.com記事によるものみたいで。

asahi.comが本件訴訟について適当にまとめたのが以下なんですが、

藤田裁判官は「君が代斉唱の強制自体に強く反対する信念を抱く者に、公的儀式での斉唱への協力を強制することが、当人の信念そのものへの直接的抑圧となることは明白だ」として、審理を高裁に差し戻すべきだと述べた。


この引用の前提として、

「例えば、オリンピックにおいて優勝者が国歌演奏によって讃えられること自体については抵抗感がなくとも、一方で、「君が代」に対する評価に関し、国民の中に大きな分かれが現に存在する以上、公的儀式においてその斉唱を強制することについては、そのこと自体に対して強く反対するという考え方も有り得るし、またこのような考え方を採る者も少なからず存在するということからも、いえるところである。
この考え方は、それ自体、上記の歴史観ないし世界観とは理論的には一応区別された一つの信念・信条ということができ、

このような信念を抱くものに対して公的儀式における斉唱への協力を強制することが、当人の信念・信条そのものに対する直接的抑圧となることは、明白であるといわなければならない。」

しかも差し戻した理由は、

「本件において本来問題とされるべき上告人の『思想及び良心』とは正確にどのような内容のものであるのかについて、更に詳細な検討を加える必要があり、また、そうして確定された内容の「思想及び良心」の自由とその制約要因としての公共の福祉ないし公共の利益との間での考量については、本件事案の内容に即した、より詳細かつ具体的な検討がなされるべきである。このような作業を行い、その結果を踏まえて上告人に対する戒告処分の適法性につき改めて検討させるべく、原判決を破棄し、本件を原審に差し戻す必要があるものと考える」

って言ってるんですけどね。


ここまでくると、ニュアンス違っちゃいますよ。


メディアって怖いですw
今回のasahi.comが限られた紙面の中で反対意見掲載したということで、無意識的か意識的かはわからないですけど…。
さらに怖いのは、その記事(のみ)をみて、「こんな意見を述べてる裁判官がいること自体がどーのこーの」という意見を持ってる人間が少なくないということ。


ネットの社会での言論。
自分も懐疑的に捉えるようにはしてきたつもりですが、それだけでは足りないみたい。
「自由」「無法地帯」と言われる中で、我々はすでに統制されているのかもしれんとです。